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奥魂(おくたま)と繋がる/奥多摩在住パーソナルコーチ松本哲明(てっつー)の公式ブログです。コーチングやイベントの情報、奥多摩での生活の様子などを徒然と綴っています。

『ことばが劈(ひら)かれるとき』by竹内敏晴 言葉に対する感性を刺激してくれる1冊(17th blog in Dec.)

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おくたまの声を受け取り、

豊かに生きる。

 

奥多摩在住パーソナルコーチ

松本哲明(てっつー)です。

 

 

『ことばが劈(ひら)かれるとき』

 

最近、読んでいる本です。

 

書評記事が書ける段階まで

読み進んではいません。

 

でも、この本に書かれている言葉に

僕は衝撃を受けたので、

思わず書いています。

 

 

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衝撃を受けた一説

衝撃を受けたのは、この一説。

 

 

話し出そうとするとき、

いちばん大きな課題は、

「私は(かりにそう言っておく)

こう考えます━」と

言い出さねばならぬ、

ということの発見であった。

 

(中略) 

 

このとき、事象はすべて

明るくそこにあった。

だが、それを支持する主体は

かくれており、

いわば「負のもの」として、

闇の中に沈んでいたと言えるだろう。

 

だが、からだの中で悶え、

表現を求めているもの

ことば化して外へと出すことは

別の次元に属するということを

私は知った。

まずこの悶えており、

他社にコミュニケーションを

求めている主体を、

なんと名づけて発音するか。

それを私は意識し、

命名しなければならぬ。

「わたしはこう考えます━」と

発音するとき、話そうとしている

この主体に「わたし」と命名するのは、

闇の中にに沈んでいた主体を

明るみへ引き出し、

それを一つの対象と化することであり、

命名という行為によって、

いわば自分を自分から引き離して、

もの化することである。

そして、その「わたし」を

光りにさらし、

おずおずと相手に引き渡す、

これはなんと恥ずかしい

行為であることか。

 

 

 

 

著者の簡単な紹介

著者の竹内氏は、

幼少期に病気で耳が殆ど聞こえなくなり、

十代の中頃に、その病気が癒えたという

体験をしている。

 

病気が癒えると同時に

ご自身が言葉を聞き、言葉を話すという

ことができないという現実にぶち当たる。

 

つまり、大半の人が、幼少期に

済ませたプロセスを思春期の頃に

体験しているのだ。

 

 

それだけに、言葉を扱うことについて、

獲得するということについて、

我々が持ちえない視点をお持ちだ。

 

 

 

似た体験で無口になった

話しは戻るが、先ほど引用した一文。

 

僕は、これに衝撃を受けたということは

既に書いた。

 

 

この一説は、以前の僕が抱えていたものと

酷似していたからです。

 

 

もう随分と前のことで、

いつの頃かは定かではありません。

 

恐らく、十代の中頃から後半にかけての頃に

一番強烈に抱えていたと思います。

 

 

僕も、自分の中で「悶えて」おり、

表出しようとしている、ある種の

エネルギー。

 

それに対して「僕は━」で始まる

言葉で表現されるものとの間に、

遺憾ともしがたい断崖の存在を

感じたのです。

 

 

それが僕を無口にさせました。

 

 

今でも口数は少ないですね。

 

これは、どちらかというと

聴くほうに重きが置かれている

感じがします。

 

 

しかし、当時の僕は、

この「断崖」の存在を

どうすることもできず、

佇んでいた。

 

ただ黙っているしかできなかった。

 

そんな感覚が蘇ってきます。

 

 

 

最後に

『ことばが劈(ひら)かれるとき』という

本と出会って、衝撃を受けています。

 

同時に、読み進めながら、

言葉に対する感性に新たな光を

当ててもらっているような感じです。

 

 

 

ことばが劈(ひら)かれるとき (ちくま文庫)

ことばが劈(ひら)かれるとき (ちくま文庫)

 

  

 

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